報道記事/1860年/安政7年

Daily Alta California
1860年3月18日(日)
【日本時間】
安政7年2月27日/1860年3月19日(月)
San Francisco
Arrival of a Japanese Steamer
日本の蒸気船が到着

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左から6列目中央あたりから7列目上部までが該当記事です。
この掲載にあたり、ブログ開設者よりブログ紹介と翻訳記事転載の了承をいただきました。その際に誤翻訳をかなり心配されていた点をお伝えします。よって、その点をご承知の上でお読みください。このブログをご覧になりたい方は、ここをクリックしてください。
以下は、ブログから転載した和訳記事です。


### 日本の蒸気船が到着 ###
興味深い航海の詳細 - 乗組員たちの作法や習慣 - 船の外観 - 日本海軍提督による訪問客の歓迎など
昨日午後3時に、船長・Kat-sin-tarrohによって率いられた日本国からの蒸気船軍艦 Candinmarruhがサンフランシスコに到着し、Vallejoストリート波止場に停泊した。咸臨丸はUragawaを出航し37日の航海を経てサンフランシスコに到着、この船には日本海軍の提督Co-ser-ke-ma-sa-no-ci-umが乗船している。
咸臨丸の航海の目的は、日米修好通商条約を締結するためにYeddoを2月10日に出航し、サンフランシスコへ向かっているアメリカの蒸気船ポーハタン号に随行するためである。
咸臨丸には次の士官らが乗船している。
Admiral, Co-ser-ke-ma-sa-no-ci-um;
Captain, Kat-sin-tarroh;
Captain attending, Managero;
Lieutenante, So-ko-rah-to to-sah, Okeomo, Yu ha, Use-e-ro, To-mo-i-go-ro, Eu-ah-ket-che;

Cheif Engineer, Ha-ma-go-ro;

Second Engineer, Kin-ge-ro;
four midshipmem three doctores, and seventy bofore the mast
この蒸気船には10の砲台が装着されている。この蒸気船には、1859年8月23日にYokohamaにて難破したFennimore Cooper号の船長John M. Brooks、E.M. Kern氏らと9人の乗組員らが乗客として乗り込んでおり、彼らはこの船に乗ってアメリカに帰国した。
☆航海の終了
咸臨丸は37日をかけて日本の港から帆走してきた。咸臨丸の航海では、日本近海を離れるまでの3日間はエンジン走行したが、それ以降はエンジンを使わず帆に風を受けて帆走してきた。咸臨丸は順調に航海し、1日に200マイルを帆走した。咸臨丸は、3年前に日本国天皇陛下のためにオランダで建造され、現在も建造当時そのままの形を留めている。建造費は7万ドルであった。
私たちはこの船が到着した昨日訪れ、Brooksらと面会をした。彼らからは非常に興味深い航海中の話を聞くことができた。
咸臨丸は日本海軍が所有する7,8の蒸気船のうちの1つであり、この船が日本ではじめて外国の港に寄港する船となった。もし、横浜沖で難破したBrooks氏らがこの船に乗船しなかったなら、この航海も実現しなかったであろうと思われる。
修好条約締結の書類はポーハタン号で運ばれているため、ポーハタン号の到着を待つ必要がある。どの日本人乗組員らも航海に必要なすべての作業に精通している。甲板長は航海に必要なすべての作業を熟知しており、彼が知らないものはなく、的確な指示を出している。
乗組員らは極めて敏速に行動し、懲罰が与えられるようなことは航海中に起きていない。日本を離れてからすべてが順調であった。船上での秩序も極めて安定していた。士官らは船を操作する航海術を完璧に理解しており、彼らは長崎の訓練所でそれらの知識を学んだ。航海に使われる器具はオランダ製かイギリス製であり、イギリス製のクロノメーター(経度測定用時計)も保有している。船上での食事は、主に米、魚の干物と漬物である。魚は菜種油でフライにされ、とても美味しい。乗組員は一日につき1ガロンの米が与えられるが、与えられた米の多くは日本にいる家族に持ち帰るために残している。野菜、お茶、砂糖などは、使ったら使った分だけその人がお金を支払う必要がある。
航海のはじめのうちは、時間を計測してはいなかったが、後にその必要性が明らかになると、すぐに時間を計測するようになった。食事には、テーブルが使われ、中国人と同じように箸が使われる。航海中に船上では宗教的な行為や偶像崇拝などは見られなかった。しかし、彼らは時折各自の部屋で「?(読解不能 多分先祖とかと思われるが)」に対して祈るらしい。彼らは航海中、この地に寄航し、アメリカの人々や精度について知ることをずっと楽しみにしていた。特にアメリカ合衆国政府に彼らは興味を抱いている。彼らは清潔で、頻繁に風呂に入る。
提督には4人の従者がついており、彼らは常に提督の側で仕えている。しかし、提督はとても繊細な人で、不必要な強制労働や形式のみを尊重するような無意味なことを従者に要求することはない。船上での命令は完全にオランダ語で行われ、すべてが敏速かつ快活に実行される。
事実、航海術全般の教育はオランダ語で行われている。したがって、これはオランダの方針が日本において極めて幅を利かせていることを意味する。
引き続き、昨日この船が接岸した際に、我々が乗り込んで見聞きしたことを記しておく。我々は日本海軍の制服をいただいた。それらは、濃い色をした毛織物の仕事着とズボン、それに柔らかい木製のサンダルである (中国人らが履いている変な木製の靴ではない)。帆柱のあるデッキにあがったところ、船の上の至る所で秩序が保たれ、きちんと整理されていることに驚いた。我々が驚いたように、我々が船上に現れると、乗組員らも突然の訪問客に驚き、あっけにとられた様子であった。海兵隊員らは、大きめな正方形の当て布を肩につけており、そこに日本語で階級が書かれている。彼らの顔つきは我々が目にする中国人らよりも、極めて知的である。
我々は船上において、礼節があり節度のある歓待を受けた。索具やエンジン他のすべての備品は我々が使用するものと全く変わりが無い。船室に入っても全く同様の小奇麗さを見ることができた。床は几帳面に磨かれている。我々が入った客室はこの航海の間、アメリカ人士官にあてがわれた一室であり、彼は航海の間、多くの従者をあてがわれ、船上で考えうる最高の歓待を受けた。
隣の客室で、我々は日本国海軍提督であるCo-ser-ke-ma-sa-no-ci-umに紹介された。彼は、温和で情け深く、年齢はおよそ40歳くらいである。私たちが彼のいる客室に入ったとき、彼は、髪をセットしているところであった。それは、一人の従者がオイルを用いて極めて芸術的にセットしていた。提督は床に座り、シャンプーを楽しんでいるようであった。その後すぐに、彼はデッキに現れた。彼の装いは、控えめではあるが紳士的なものであった。足は雪のように白いサンダルとストッキングで覆われ、羽織っているこげ茶色のコートは、群青色のベストと鮮やかな対比を成している。そのベストには前面に銀の糸で刺繍が施されている。腰には2本の刀(トルコ製の弧を描いたような刀に似ている)を差している。
咸臨丸に乗っていた大尉以上の士官らは、"二刀士官"と呼ばれ、2本の刀を帯刀することが許されており、これが位を意味している。刀は非常に鋭利で、美しく磨かれている。提督の頭は、一部が剃られ、頭髪は後頭部で結わえられている。隣の船室では、チーフ・エンジニアのMah-ma ge-roが従者によって頭髪を整えている。
我々は、提督の船室に、ブキャナン大統領の写真(絵?)が目立つところに飾られていることに気付いた。日本の国旗は船首に掲げられている。この旗は、白地に赤い丸が描かれたものである。縦帆には提督のプライベート・シグナル(?意味不明)が描かれている。この模様は白地に赤い円があり、その中に菱形が描かれている。我々はとても美味だが、不思議な香りのする軽食をいただいた。我々が船上でノートを取っていると、日本人たちは我々の記述の仕方に強い興味を抱いたようだ。我々がノートを調べる許可を与えると非常に満足げな様子だった。この好奇心は、服、時計、鉛筆、ナイフなどにも向けられた。サンフランシスコの街も彼らの好奇心を掻き立てるだろうことは疑いがない。
船長のKat-Lintaroは、航海の間、ほとんど病気であり、知的な医師によってずっと看病されていた。従者が船長の部屋に入るとき、従者は高位の人に対して低くお辞儀をし、部屋を出るときも同様のことをする。士官候補生の一人の名前は Kun-u-rah-tse-no-kamという。"I thank you"を日本語では"A-rung-a-tu"という。
推測だが、咸臨丸は興味ある人たちに一般公開されると思われる。とても興味深い船なのでこのチャンスを逃すべきではない。多分、このような機会はこの先、何年も訪れないだろう。咸臨丸に敬意を評する礼砲の打ち合いは、明日行われる。
昨晩、船長Mau-ge-roo,Yo-sa ro, Oke yo-mo, U-ha-raの4名がBrooks船長とCharles氏らと共に、サンフランシスコの街に上陸し、いくつかの主要ストリートを歩いて彼らが滞在するインターナショナル・ホテルへとやってきた。夕食がもてなされ、彼らは今まで体験したことがないような様々な風味を議論し、満足した様子であった。この後、彼らはBrooksによってJob'sホテルに招待され、アイスクリームやお菓子を生まれてはじめて食べた。