塩飽島下調べの旅
水主の全容解明に迫る
2003年11月7日〜8日


幹事教授方頭取
佐々木 寛

  2003年11月7,8の両日、小杉伸一幹事教授方と連れ立って、瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島の本島(ほんじま)と高見島へ旅した。咸臨丸子孫の会としての旅行を1年後に計画しており、その下検分をするためだ。咸臨丸が1860年に渡米した時、日本人乗組員96人のうち塩飽島出身の水主が35人もいたが、咸臨丸子孫の会にはその子孫があまりおらず、少しでも子孫のことを調べたいと、かねて考えていた。

【出発までの経緯】
 まず、電子メールで香川県丸亀市役所に塩飽島の水主(かこ)のことを尋ねたところ、文化課から2003年5月「塩飽勤番所顕彰保存会の入江幸一会長が数人を把握しているのではないか」と紹介してくれた。

 そこで、入江会長に手紙を出したところ、7月24日に返事があり、「子孫はほとんど島外に出ていて、島には住んでいない。塩飽島は本島(ほんじま)の旧称で、28の島からなる塩飽諸島全域を指すことでもあり、乗組員35人はそのうち有人の11島のうち本島、広島、櫃石(ひついし)島、高見島、牛島、瀬居島、佐柳(さなぎ)島の7島から出ている。行政地区も香川県丸亀市、坂出市、多度津町の3地区に分かれている」などのほか、交通ルートや民宿まで教えてくれた。

 当初はとりあえず本島だけに行く方針だったが、10月に江差で開催された戊辰役東軍殉難者慰霊祭で会った「桑港にて」の著者・植松三十里さんから「高見島が面白い」との話を聞き、寸前になって高見島も訪問することになった。

 「桑港にて」は、咸臨丸で渡米した乗組員のうち、吉松や居残った病人を中心とする塩飽水夫たちのサンフランシスコでの話をフィクションで書いたもので、植松さんからは、いろいろな参考意見や、塩飽島の写真をメールで送ってもらい、さらに水主の名前を確認するきっかけともなり、彼女との出会いはすごくタイミングのよいものだった。

 さて、高見島へ寄るとなると、多度津港からフェリーで行けるが、そこから本島へは行政区画が異なるので、船便がない。限られた時間の中で効率良く周る妙案が出せずに困っていた時に、瀬戸内海に海上タクシーがあることを知り、香川県庁ホームページを通じて電子メールで海上タクシーを照会した。数日後に香川県庁観光交流局から登録業者などが紹介され、高見島―本島間の海上タクシーを予約した。

 航空便と民宿の予約も整い、海上タクシーの予約を済ませて11月7日を待った。


【11月7日】
 午前7時、小杉氏と横浜駅で待ち合わせ、羽田空港から空路高松へ。高松空港着が遅れた関係でJR高松駅から乗る予定の電車に間に合わないと判断し、高松空港からタクシーで丸亀市役所へ直行した。約6,700円。

 当初の予定より30分以上も早く丸亀市役所に着き、丸亀市役所文化課課長に挨拶し訪問に至るまでの情報提供などのお礼を述べた。課長さんとの歓談の中で、小杉さんの勤務先の元上司が課長さんの親友とわかり、事務的な話から親近感のある会話に変った。訪問目的を理解された課長さんは、その場で本島の入江さんに電話して同日の夕食前に民宿でお茶を飲みながら、話を聞けるよう手配して頂いた。翌日の予定だった入江さんとの面談が繰り上がりが新たな発見などに大きく影響する結果となった。


多度津=高見島=佐柳島フェリー/多度津港にて

 文化課を後にして文化課から教えて頂いた近くの商店街の店で昼食に讃岐うどんを賞味し、多度津港へ。ここでJR多度津駅から多度津港への移動がかなりの距離でタクシーしかないことを知り、JR丸亀駅から多度津港へタクシーで直行した。このタクシー利用で多度津港からのフェリー出港時刻まで1時間半の待ち時間(午後12時半−2時)となったが、この待ち合わせ時間が更なる情報収集に役立った。

 多度津港でフェリーの出港を待つ人達との会話で、子孫の会ただ一人の塩飽島出身水主・吉松の子孫・西田一義さん(大阪・枚方市在住)の親戚や、高見駐在所の駐在さんにも会って、いろいろの情報を得ることができた。幸運だった。

 高見島では、西田さんの親類の家を見に行くひまはなかったが、吉松の玄孫・西田一義さんの父・故音一の奥さん・光枝さん(旧姓北野、昭和5年生まれの74歳、現在入院中)の姉・辰野すみ子(76歳)さんから待ち時間中に話を聞くことができた。

本島へ向かう海上タクシーから。右上が高見島
 音一の妹の夫は鶴夫といって、双子・亀一の兄で、めでたい鶴亀の名が付いており、大正14年7月4日生まれの78歳とか。鶴夫は高見島に住み、亀一は娘夫婦と多度津に住んでいることがわかった。また高見島には、大倉吉夫(または由男)という102歳の古老がいて、話を聞きに行こうと思ったが、島に上がってみると、もうボケていて話を聞くのは無理だといわれて、断念。

 でも、高見島の駐在さん・宮武進さん(54歳、多度津警察署高見駐在所)にはフェリーに乗る前、背広・ネクタイ姿のわれわれ小杉さんと2人に向かって「あんたがた、どこへ行きなさるかな」と親しげに尋問され、「咸臨丸に乗り組んだ水主の子孫のことなどを調べに高見島に行くんです」というと、駐在さんは会う人ごとに「咸臨丸の子孫のことは知らんかね」と聞いてくれた。島に上がってからは駐在所に荷物を置かせてもらい、親切にも歴史に詳しい郵便局長にも紹介してくれ、大西逸志局長は人名制度の資料をコピーしてくれた。

 佐柳島には水主の子孫はいないが、坂恵(さかえ)節典さん(75歳、多度津町佐柳718)という古老がいて、話を聞きに行くといいといわれた。もっと詳しいことは、多度津町の資料館に行って調べるよう勧められた。

 約2時間の高見島滞在だったが、思わぬ情報収集に満足しながら海上タクシーで塩飽本島へ向かった。定員12人のプレジャーボートに2人で乗り、8,000円だったが、快適なスピード感を味わった。



入江さんから塩飽本島の概要説明を受ける佐々木頭取
 本島泊港に上陸した我々を入江幸一・塩飽勤番所顕彰保存会会長が自転車で迎えにきてくれ、港の島内案内板で島の概略説明を受けた。その後、民宿「はまべ」で懇談した。入江さんは83歳と高齢だが、お元気で、塩飽人名の年寄・入江四郎左衛門のご子孫。塩飽水主のうちただ1人記録を残した石川政太郎の『安政七年咸臨丸渡米日記』『塩飽海賊史』『丸亀史抄』(平成11年、丸亀市文化財保護審議会)、『塩飽島史跡』(大正13年、香川県)、『塩飽水軍の島本島へいっぺん来んかな』(平成13年、本島しまおこし実行委員会)などの本を持参して見せてくれたり、一部贈呈してくれて、島のこと、水主のことなど懇切丁寧にすべて説明してくれた。

 入江会長によると、水主(かこ)は加工、水夫とも表記されるという。塩飽は、瀬戸内海の潮流が微妙にぶつかり「潮湧く」風情から名付けられたとか。「人名(にんみょう)制度」とは、大小28の島々が散らばるこの海域に、織田信長、豊臣秀吉を経て徳川幕府までの朱印状を得て、1250石の自治を許された650人の船方衆がいて、その男たちは大名に対し「人名」と呼ばれ、その中から選ばれた4人の「年寄」が島の政治を司っていた。塩飽の要・本島にある国指定史跡「塩飽勤番所」は、寛政10年(1798)に建築、年寄たちが交代で政務を執った海の政所(まんどころ)で、全国でここ1ヵ所しかないとのこと。

 夕食後、お借りした資料を深夜まで夢中になって読んでしまった。

塩飽勤番所

【11月8日】
 午前9時、この「塩飽勤番所」で入江会長と待ち合わせ、会長自らの説明を聞く。この資料館には、石川政太郎の『航海日記』、土産に持ち帰った写真や遺品(ガラスコップ、インクスタンド、絵入り新聞など)のほか咸臨丸の模型、浦賀で中島三郎助などが造船した初の洋式軍艦・鳳凰丸の掛け軸、朱印状なども展示してある。また、ここにはサンフランシスコで撮った咸臨丸乗組員の記念写真が2枚ある。本島泊出身の水主・松尾延次郎と、広島・市井浦出身の水主・向井仁助のものである。

【延次郎】
 延次郎は信次郎ともいう。文政4年12月28日生まれ、明治27年2月29日、74歳で没し、戒名を浄誉法山信士という。渡米中病気でサンフランシスコの病院に居残り、8月に箱館に帰った。後また、咸臨丸に乗り、文久2年3月には小笠原島へ行った。松尾家に延次郎が写した写真とギヤマンの皿が残っていた。皿は文倉平次郎が買い受けて持ち帰り、写真は嗣子光之助が真木信夫氏に譲ったもの。

【仁助】
 仁助は仁介とも書く。津軽出身とも長崎出身ともいわれている。広島立石の尾上吉五郎の廻船の船夫であったが、市井・向井かつの後夫となる。文久2年3月咸臨丸の水主として小笠原に行き、その後明治27年2月2日(旧正月8日)没し、戒名を本覚西入信士といい、墓は市井海浜の墓地にある。この写真は、ちょん髷、和服姿で、一刀を差し、なたまめ煙管を手にしている。渡米水主の写真はこの2枚しかなく、当時の水主の服装を知る上で貴重な資料である。

【松太郎】
 このあと、泊港近くの共同墓地にある塩飽水主・鉄砲方の横井松太郎の墓を詣でた。『咸臨丸と讃岐』(真木信夫著、昭和35年刊)によると、松太郎は天保14年2月28日生まれで、咸臨丸渡米時は17歳であった。病気でサンフランシスコの海軍病院に居残り、万延元年8月便船で箱館に帰り、また江戸に戻り、咸臨丸に乗り組んだ。明治34年1月25日、58歳で没し、法名は直至院真善道応居士。妻はユキといい、明治26年8月5日没、戒名は負室義光大姉。

【疑問が解消】
 ともかく、私の疑問は、咸臨丸渡米時の日本人乗組員数が一般的に96人といわれているのに、私が『夷荻の国へ』(尾佐竹猛著、昭和4年刊)と、浦賀・愛宕山にある「咸臨丸出航の碑」の裏側に記された名簿に基づいて調査した結果、98人となっていたことだった。この疑問が、入江幸一氏の説明などで一気に解消した。これは、今回の下調べ旅行で最大の収穫だった。つまり、同書に書かれていた

1.水主小頭(塩飽)櫃石島太郎松は松太郎のひっくり返しで間違い、実在しない。これを削除。
2.塩飽島水主峯吉とあるのは、長崎火焚役の峰吉とダブっており、これも削除。

3.長崎火焚役九八とあるのは、石川政太郎の日記の九八ページのノンブルが名前と勘違い
  されていたもので、これも削除。

 こうして、98人から3人を差し引くと95人と、96人より1人少なくなってしまうが、勝海舟の従者が名前不詳でもう1人いるという説が台頭してきた。今後の調査に待ちたい。どなたかご存じの方がおられましたら、ご教示いただければ幸いです。

 塩飽勤番所を出た我々は入江さんの案内で島内史跡を巡りながら泊港へ向かった。泊港近くの墓地へ行き、横井松太郎の墓を案内され、合掌。ここで蝋燭立が組み込まれた墓石が多いのに気付いた。塩飽独特の習慣からなのかが分からなかった。帰京後、西日本ではよく見かける墓石であることがわかった。


丸亀行フェリーから見た塩飽本島
下は塩飽勤番所内に展示されている咸臨丸1/50模型
 12:35分発丸亀港行のフェリーで本島をあとにした。船内で船の運航状況を尋ねたところ、安定した運航は秋で他の季節は波浪が多いことが分かった。特に春は濃霧で欠航が多いことも分かった。この情報から塩飽訪問は秋が適切との結論を得た。

 丸亀港に着き、JR丸亀駅へ急ぎ足で移動。予想以上の距離でJR利用の際に十分な時間的余裕が必要と分かった。丸亀から高松へはJR快速で移動。JR高松駅前でもう一度、讃岐うどんを食べてから高松空港へ向かった。新しい高松駅は、宇高連絡船の面影がまったくない姿に変わっていた。

 高松空港から羽田空港までの空路は、時刻表とおりの運航だった。羽田空港から霞ヶ関へ直行して咸臨丸子孫の会幹事会に出席し、新鮮な情報たっぷりの帰朝報告となった。

以上

咸臨丸子孫の会


YKH-SK32031R0