塩飽島下調べの旅
水主の全容解明に迫る
2003年11月7日〜8日
幹事教授方頭取
佐々木 寛
2003年11月7,8の両日、小杉伸一幹事教授方と連れ立って、瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島の本島(ほんじま)と高見島へ旅した。咸臨丸子孫の会としての旅行を1年後に計画しており、その下検分をするためだ。咸臨丸が1860年に渡米した時、日本人乗組員96人のうち塩飽島出身の水主が35人もいたが、咸臨丸子孫の会にはその子孫があまりおらず、少しでも子孫のことを調べたいと、かねて考えていた。 【11月7日】 |
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多度津=高見島=佐柳島フェリー/多度津港にて |
文化課を後にして文化課から教えて頂いた近くの商店街の店で昼食に讃岐うどんを賞味し、多度津港へ。ここでJR多度津駅から多度津港への移動がかなりの距離でタクシーしかないことを知り、JR丸亀駅から多度津港へタクシーで直行した。このタクシー利用で多度津港からのフェリー出港時刻まで1時間半の待ち時間(午後12時半−2時)となったが、この待ち合わせ時間が更なる情報収集に役立った。 多度津港でフェリーの出港を待つ人達との会話で、子孫の会ただ一人の塩飽島出身水主・吉松の子孫・西田一義さん(大阪・枚方市在住)の親戚や、高見駐在所の駐在さんにも会って、いろいろの情報を得ることができた。幸運だった。 高見島では、西田さんの親類の家を見に行くひまはなかったが、吉松の玄孫・西田一義さんの父・故音一の奥さん・光枝さん(旧姓北野、昭和5年生まれの74歳、現在入院中)の姉・辰野すみ子(76歳)さんから待ち時間中に話を聞くことができた。 |
本島へ向かう海上タクシーから。右上が高見島 |
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音一の妹の夫は鶴夫といって、双子・亀一の兄で、めでたい鶴亀の名が付いており、大正14年7月4日生まれの78歳とか。鶴夫は高見島に住み、亀一は娘夫婦と多度津に住んでいることがわかった。また高見島には、大倉吉夫(または由男)という102歳の古老がいて、話を聞きに行こうと思ったが、島に上がってみると、もうボケていて話を聞くのは無理だといわれて、断念。 でも、高見島の駐在さん・宮武進さん(54歳、多度津警察署高見駐在所)にはフェリーに乗る前、背広・ネクタイ姿のわれわれ小杉さんと2人に向かって「あんたがた、どこへ行きなさるかな」と親しげに尋問され、「咸臨丸に乗り組んだ水主の子孫のことなどを調べに高見島に行くんです」というと、駐在さんは会う人ごとに「咸臨丸の子孫のことは知らんかね」と聞いてくれた。島に上がってからは駐在所に荷物を置かせてもらい、親切にも歴史に詳しい郵便局長にも紹介してくれ、大西逸志局長は人名制度の資料をコピーしてくれた。 佐柳島には水主の子孫はいないが、坂恵(さかえ)節典さん(75歳、多度津町佐柳718)という古老がいて、話を聞きに行くといいといわれた。もっと詳しいことは、多度津町の資料館に行って調べるよう勧められた。 約2時間の高見島滞在だったが、思わぬ情報収集に満足しながら海上タクシーで塩飽本島へ向かった。定員12人のプレジャーボートに2人で乗り、8,000円だったが、快適なスピード感を味わった。 |
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入江さんから塩飽本島の概要説明を受ける佐々木頭取 |
本島泊港に上陸した我々を入江幸一・塩飽勤番所顕彰保存会会長が自転車で迎えにきてくれ、港の島内案内板で島の概略説明を受けた。その後、民宿「はまべ」で懇談した。入江さんは83歳と高齢だが、お元気で、塩飽人名の年寄・入江四郎左衛門のご子孫。塩飽水主のうちただ1人記録を残した石川政太郎の『安政七年咸臨丸渡米日記』『塩飽海賊史』『丸亀史抄』(平成11年、丸亀市文化財保護審議会)、『塩飽島史跡』(大正13年、香川県)、『塩飽水軍の島本島へいっぺん来んかな』(平成13年、本島しまおこし実行委員会)などの本を持参して見せてくれたり、一部贈呈してくれて、島のこと、水主のことなど懇切丁寧にすべて説明してくれた。 入江会長によると、水主(かこ)は加工、水夫とも表記されるという。塩飽は、瀬戸内海の潮流が微妙にぶつかり「潮湧く」風情から名付けられたとか。「人名(にんみょう)制度」とは、大小28の島々が散らばるこの海域に、織田信長、豊臣秀吉を経て徳川幕府までの朱印状を得て、1250石の自治を許された650人の船方衆がいて、その男たちは大名に対し「人名」と呼ばれ、その中から選ばれた4人の「年寄」が島の政治を司っていた。塩飽の要・本島にある国指定史跡「塩飽勤番所」は、寛政10年(1798)に建築、年寄たちが交代で政務を執った海の政所(まんどころ)で、全国でここ1ヵ所しかないとのこと。 夕食後、お借りした資料を深夜まで夢中になって読んでしまった。 |
塩飽勤番所 |
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【11月8日】 【延次郎】 【仁助】 【松太郎】 【疑問が解消】 1.水主小頭(塩飽)櫃石島太郎松は松太郎のひっくり返しで間違い、実在しない。これを削除。 3.長崎火焚役九八とあるのは、石川政太郎の日記の九八ページのノンブルが名前と勘違い |
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丸亀行フェリーから見た塩飽本島 下は塩飽勤番所内に展示されている咸臨丸1/50模型 |
12:35分発丸亀港行のフェリーで本島をあとにした。船内で船の運航状況を尋ねたところ、安定した運航は秋で他の季節は波浪が多いことが分かった。特に春は濃霧で欠航が多いことも分かった。この情報から塩飽訪問は秋が適切との結論を得た。 丸亀港に着き、JR丸亀駅へ急ぎ足で移動。予想以上の距離でJR利用の際に十分な時間的余裕が必要と分かった。丸亀から高松へはJR快速で移動。JR高松駅前でもう一度、讃岐うどんを食べてから高松空港へ向かった。新しい高松駅は、宇高連絡船の面影がまったくない姿に変わっていた。 高松空港から羽田空港までの空路は、時刻表とおりの運航だった。羽田空港から霞ヶ関へ直行して咸臨丸子孫の会幹事会に出席し、新鮮な情報たっぷりの帰朝報告となった。 |
以上
咸臨丸子孫の会