ACTIVITY REPORT
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勝海舟銅像除幕式 盛大に挙行 2003(平成15)年7月21日 |
咸臨丸子孫の会
幹事教授方頭取
佐々木 寛
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本所で生まれ24歳まで「すみだ」で過ごした幕末の英傑・勝海舟の銅像が2003年7月21日、墨田区役所前の「うるおい広場」で全国から集まった約350人が参加して盛大に挙行された。 海舟は本所亀沢町(現両国4丁目の両国公園通り辺り)で生まれ、浅草にあった島田虎之助道場での剣術の稽古後に吾妻橋を渡り、弘福寺へ精神修業の参禅に行く際にこの辺を通った。このゆかりの地に銅像は建てられた。ここからは海舟が和歌を詠むなどして親しんだ「墨田川」を見渡すことができる。 海舟は幕末軍艦「咸臨丸」の船将として日本人として初めて太平洋を渡り、江戸城無血開城をはじめ卓越した政治手腕を発揮し、数々の功績を残した。 |
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しかし、同時期に活躍した西郷隆盛の銅像が上野公園内にあるのに、都内には海舟の全身像はない。このため、平成12年に「勝海舟の銅像を建てる会」(会長・鵜澤義行日大名誉教授)という市民組織が結成され、全国の数多くの賛同者から4,900万円の募金が集まり、昨年から1年かけて墨田区出身で日展評議員・審査員の彫刻家、木内禮智が銅像を制作した。 銅像は海舟の身長158cmの約1.5倍の2.5mあり、台座を含めると5.5mのそびえるような高さ。銅像は江戸城無血開城をなし終えた46歳ごろをモデルにしたものだが、曾孫・五味澄子さんは「銅像の顔が海舟に似ていない」との不満をもらす。 ただ、西郷の銅像も当初は「似ていない」といわれたが、いつの間にか本人そのものみたいに一般から親しまれるようになったこともあり、成り行きを注目したい。ちなみに、台座は地元墨田区に本社がある坂田建設が施工した。 ところで、除幕式には咸臨丸子孫の会会員の五味澄子さんが主役として出席、それにサポータとして「子孫の会」から佐々木寛幹事教授方頭取、小杉伸一幹事教授方、小林賢吾、吉村尚子両幹事見習方、小杉晃さんも出席、入場行進のときも鵜澤会長、製作者の木内さん、山ア墨田区長、五味さんにこの5人が続き、除幕のひもを引っ張る栄誉に授かった。 咸臨丸子孫の会が外部の公式行事に招かれて参加したのは初めて。これも勝海舟船将のおかげと感謝せざるを得ない。 子孫の会の参加が決まったのは数日前で、「建てる会」の鵜澤会長も除幕式がにぎやかになって喜んでいた。鵜澤会長は日大副総長を務めた法学博士、専門は政治史で、佐々木寛が名刺を渡すと、浜口興右衛門が浦賀奉行所に勤め、軍艦操練所教授方となったこと、操練所が一時、軍艦教授所と称されたこともあったなど、歴史に詳しい人だった。 五味さんは朝日、産経新聞記者にも取材され、22日の新聞に載るかもしれない。 |
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除幕式の司会は漫才師のリーガル天才・秀才の秀才さん(77歳)、この後開かれた祝賀会の司会も、江戸独楽・皿回し・曲芸などの「みす乃家」南玉さんが務め、下町の江戸っ子の雰囲気をかもし出していた。 祝賀会では、書家・柳田泰山さんの「海」という字の席上揮毫に始まり、衆院議員の西川太一郎経済産業副大臣(江東区選出)が「海舟は身を飾るのがきらいだった」と挨拶した後、日舞、太鼓、玉すだれなどの出し物があり、二時半過ぎまで懇親が続いた。 |
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事前説明で五味さんの自宅を訪問した「建てる会」の山口千鶴子さんは、五味さんに『咸臨丸
栄光と悲劇の5000日』(合田一道著、道新選書)という本があることを伝えてほしい、と私に託した。その本の帯には「激動の明治初期、木古内沖で沈没した幕艦の数寄の運命―太平洋横断の快挙のあと、時代に翻弄され、最後は本道への開拓移民団輸送に当たった帆船―その建造から沈没まで15年間の航跡をつぶさに検証する」とある。 われわれ子孫の会16人が2001年8月、IHCオランダのキンデルダイク造船所を訪ねたとき、広報部長のホルダーマンさんが合田さんという人が先ごろ同造船所を訪れたといったが、その人がまさにこの本の著者だったのだ。 |
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以上 |